高慢と変態

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「嫌われる勇気」の良いとこ、悪いとこ

※あくまで主観なのでご了承ください。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

自己啓発、あんま好きじゃないんだよね。

めちゃくちゃ売れてるなー。アホたちを惹きつける小細工はどんなもんなんだろう。

そんな冷やかし半分で立ち読みしたら、「おっ?」と思ったので購入。

フロイトユングと並ぶ心理学3大巨頭の1人のアドラー心理学の本で、

なおかつ話はソクラテスを彷彿とさせる対話形式で進行してる。

ちょっと学術チックなところにまんまとはまってしまったわけです(その他大勢と同様に)

 

「変わりたい、けど変われない」という人に向けられた本。

まず、「人は変われる」、と「哲人」は言う。人間という存在は「原因論」ではなく「目的論」の住人なのだと。だから過去の経験によって一意に現在の自己が規定されることなどありえず(だからアドラーはトラウマというものを完全に否定してる)、自分がそう望むように、あらゆる事物を「解釈」しているにすぎないのだと。

つまり、原因によって自分が固定されているのではなく、自分が掲げる目的に沿った形で、自分自身を変えることは可能だと。

 

変わりたい、そう願うのは、今の自分について不満があるからだ。そしてその不満は、究極的にはすべてが「対人関係」に端を発するという。更に言えば、この本で語られている限りから察するに「対人関係の悩み」=「劣等コンプレックス」ということになる。「劣等コンプレックス」とは、自分が他者と比較して劣っていると感じ、それをあれこれ理由をつけて正当化するなり、劣ってる自分にどうにか注目してもらう方法を考えたりする性向のことだ。

 

変わりたい、そう願わせるものが「劣等コンプレックス」であるとともに、そんな自分を変えさせないものも「劣等コンプレックス」だ。他者との比較の中で生きている限り、人は変われないようだ。よほどの天才か、若しくは小山の大将を気取っていない限りは、他者より劣っている自分を認識せざるを得ないし、かといって恥をかいたり、周囲に馬鹿にされているような気がする環境に居続けることは困難だ。だから劣等コンプレックスに苛まれる人間は、そうした場所から遠ざかるために引きこもったり、仕事を休んだり、腹痛やパニック障害を「捏造」するようになる。

 

つまり、本当の意味で変わるためには「劣等コンプレックス」それ自体を消すしかない。そしてそれは、他者との比較という世界から脱することに他ならない、ということだ。それを突き詰めていくと、必要なのは「嫌われる勇気」なのだという。

他者との比較の中に生きる、ということは、他者の視線を自分の中に内包する、もっと言えば他者の人生を生きることになる、と「哲人」は語る。それをやめるためには、まず「承認欲求」を捨てる必要がある。それはとりもなおさず「他者が良いと思うことを為す」ことを止め、「自分が良いと思うことを為す」、ということになる。それはもちろん、時として嫌われる結果となることもある。それを恐れずに実行する勇気、つまり「嫌われる勇気」を持て、ということなのだ。

 

少し読解ミス、というか記憶間違いがある可能性はあるものの、以上が大筋としてこの本の言わんとするところだと思う。なのでここまで概して客観的な筋書きを述べたと考えてもらっていい。

 

ここからは主観だ。感想だ。タイトルで「良いとこ、悪いとこ」と銘打ったわけだが、「この本を読んで得たもの、そしてやっぱり納得がいかなかったところ」と言った方が正確だ。

まずは「得たもの」について少し話したい。

とはいっても、つまるところ「人をモノ化する傾向に立ち向かうことが善なのだ」という一言に尽きる。100%価値観の問題だ、と思う。

この本は「原因論」を否定し、「目的論」を称揚している。最初は疑問ばかりだった。両者の違いがあまりわからなかったからだ。あらゆるものごとには原因がある、という説と、あらゆる人の営み(ものごと、とは多分言えないのでレベル感が少しずれるわけだけど、まあ些細なことです)には目的がある、という説。目的が成就されれば、そこには原因が存在するわけで、結局のところそれは原因論ではないか、と思った。しかし目的を達成できたとするならば、その原因とは「人の意志」に他ならない。原因論は物理的な問題だ。机に置かれたビー玉を弾けば、弾いた方向に、弾いた強度に対応した距離を、弾いた強度に対応した速度を持って転がり、やがて万有引力の法則に従って、机から落下する。量子論とかカオス理論とかを万が一ここで引き合いに出されたらぐうの音も出ないのだけれど、まあ常識的にこれは疑いが無いところだろう。物の運動には必ず原因が存在する。しかし、人間は違う。人間も物理的な世界の住人であることは間違いないと思うが、それは「原因」としてではなく「制約」として存在するのではないか。つまり、やれることに限りは存在するものの、その選択肢から1つを選び取る自由を人間は与えられている。そしてその選択肢と、その選択基準は、人間の「目的」次第で変わるのだ。それが目的論の大切な部分だと思う。

その一方で、「もし受験勉強を頑張ってもっといい大学に入っていたら」とか、「本気出せば余裕」とか言うよくありがちな言い訳ともつかない謎の言葉を口にする人たち(僕も含め)というのは、進んで原因論の住人になろうとしていることになる。そんな極端な例をあげずとも、他者比較の中で悩んでいる場合というのは、「他の人がこう思うから、僕はこうする」という原因論に縛られているに過ぎない。そして原因論というのは物理的な必然の世界の理だ。そこに安住するとき、人はモノ化する、と言えないだろうか。それは、個人的には、悪だと思う。これが僕の「得たもの」だ。

 

 

逆に納得いかなかったこと。それは、アドラーの「人生の目標」とやらについてだ。彼は人生の目標を、①自立すること②他者と調和すること③能力があると感じられること④他者に貢献してると感じられること、としている(確か)。

だけど、なんで人生の目標を決められなくてはいけないのか。恐らくこれがアドラーの考える「幸福な状態」の定義なのだろう。これに沿った「目的論」の中に生きれば、人は誰しも幸せになることができる、ということだ。しかし、これは先ほどまでの「目的論」や「嫌われる勇気」などの話とは質が全く違う。さっきまでの話は、少なくとも論理だった。筋は通っていると思える。だけどこれは、明らかに飛躍がある。幸せはこれです。だからみなさんここを目指していきましょう。これでは宗教であって科学ではない。哲学でもない。間違っているとは言わないし、言えないのだけど、せめて間違っているか正しいか判断できるような仕方で、つまりは論理的な仕方で説明してもらわないと困る。もちろん僕の読み違えの可能性はあるので、誰か論理的な仕方で教えて欲しい。出来る限り真剣に耳を傾けるので。

 

それでは。