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【分析】グレート・ギャツビー/フィッツジェラルド【構造主義・脱構築を通じて】

※これは2年前に書いた文章を基にしています。論理関係や視野の狭さについて今更手を加えるのも面倒なので、そうした欠陥が存在することについて予めご了承頂いた上でお読みください。

Ⅰ序論

これは、フィッツジェラルド著『グレート・ギャツビー』に関して、第一には構造主義の観点から、そして第二には脱構築的な観点からの批評を試みるものである。まず構造主義的批評として、ギャツビーとマートルでは、両者がそれぞれデイズィーとトムに対して有している上下関係に対して、異なる認識を持っていること、それ故に両者が引き起こすアクションも異なってくるということを示す。また、暑さ/涼しさという二項対立が、リアリズム/ロマンチシズムという二項対立と重ね合わせられているということについても述べる。

次に脱構築的批評を通じて、リアリズム/ロマンチシズムという二項対立が、それぞれの項が互いに依存し合っており、実際には対立していないことを示す。

そして最後に、今回の分析で不完全だと思われる点や今後の課題について述べることにしたい。

 

構造主義批評の観点から

ではまず、『グレート・ギャツビー』を構造主義的に分析する。構造主義批評とは、物語内の二項対立や、媒介項、上下・水平関係などに着目しながら、物語を支配している構造を捉えようとするものである。本作について、二項対立や関係性という視点を導入することで、一つの読み方を提示できればと思う。

 

Ⅱ-ⅰ:「持たざる者」と「持てる者」の断絶

一点目として、ギャツビー/デイズィーの関係性と、マートル/トムの関係性について、ギャツビーとマートルがどのようにその関係性について考え、行動したのかを述べたい。

ギャツビーもマートルも、デイズィー/トムの夫妻のそれぞれを愛しており、手に入れたいと願っているが、実際に相手をその配偶者から奪い取るためには、彼等とビュキャナン夫妻とを隔てる「あるもの」を越えねばならない。その「あるもの」とは、社会的身分や経済的豊かさといった、所謂「正統性」である。デイズィーを手に入れるには「彼女と同じような社会層の出だと彼女に信じさせ」(246P)たり、「背後にれっきとした家系の後楯」(246P)が必要だったし、トムに関しても自分を「支配人種」として考え、ギャツビーの素性を暴こうとするなど、生まれの正統性に価値を置いていることは作品中で強調されている。したがって、ギャツビーやマートルが彼等と結婚するためには、そういった「正統性」を有することが必要なのだ。しかし、ギャツビーの親は「敗残の百姓」(159P)であるし、マートルは廃れた「灰の谷」に住んでいる。ここに大きなギャップ=上下関係が存在している。

ギャツビーはこの断絶の存在を正確に認識していた。デイズィーとの関係を水平化するために、3年間かけて財を成し、邸宅でパーティーを開き、ニックやマートルを利用するなど、あらゆる手段を尽くしている。一方、マートルはトムとの間に上下関係を認めず、対等な関係であるかのように振る舞っている。例えば、マートルはニューヨークでトムやニック、妹のキャサリンたちと酒を飲んでいる時、ボーイが頼んだ氷を持ってこないことに対して、「下層階級のだらしなさには匙を投げたというように眉をあげた」(53P)のである。また、トムの眼を「まともに見やった」(43P)り、夫ウィルスンのことを蔑ろにするのも、自分がウィルスン=下層階級よりも、トムの側に近いという認識を示しているのだろう。つまり、マートルは自分とトムとの関係性を誤解、勘違いしているのだ。したがって、彼女はギャツビーとは異なり、上下関係を解消する方策を何一つ実行しない(そもそも彼女が「灰の谷」に住んでいることを気軽に打ち明けてしまった時点で希望は絶たれていただろうが)まま、「デイズィーがカトリックだから離婚出来ない」というトムの嘘に踊らされ続けることになるのだ。結果として、ギャツビー/デイズィーの関係性が、トムを脅かすほどに水平化に成功するのに対して、マートル/トムの関係性はその断絶を微塵も埋めることが出来ないで終わる。トムの車を見かけ、それが止まってくれるはずだと「勘違い」をして、そのまま轢かれて死んでしまうのも、虚構に気が付かない人物の悲劇的な末路として考えられるだろう。

 

Ⅱ-ⅱ:気候と現実認識との連関

二点目として、暑さ/涼しさの二項対立に、リアリズム/ロマンチシズムの二項対立が重ね合わせられているということについて述べていきたい。

本作は、ニックが夏のはじめにウエスト・エッグに越してきて、夏が終わり秋に入ったところまでを描く、ひと夏の物語である。夏の進行と共に、ギャツビーとデイズィーとの関係性も深まっていき、そして夏の終わりと同時に、ギャツビーとデイズィーとの関係性は永遠に絶たれる。デイズィーにとって、ギャツビーは「涼しい」人物である。夏の一番暑い日に-これはギャツビーとデイズィーとの関係性が最も接近する日だが-デイズィーはギャツビーに向かって、「あなた、とっても涼しそうだ」(193P)と言う。暑さがその勢いを増すほど、ギャツビーの涼しさ、つまり魅力も際立って見えるようになるわけである。トムはデイズィーが暑いことに不平を漏らしているのに対して、「要は暑さを忘れることだ」「文句を言ったって、十倍もつらくなるだけだぜ」(207P)と言っている。これは上記の関係性を踏まえれば、「涼しそう」なギャツビーの魅力などに惑わされるのではなく、「暑さ」を忘れてしまった方がよいというメッセージにもなるだろう。そして、秋になり暑さが落ち着くと、ギャツビーの「涼しさ」は価値を失うのである。

では、涼しさがギャツビーを象徴しているとしたら、暑さは何を象徴しているのだろうか?ギャツビーとの恋愛がロマンチシズムを表している以上、暑さとはトムを含めた現実のことであろう。数々の面倒事が山積し、昔楽しんでいたロマンスが完全に失われた現実に対する嫌気と、どうにも処理しがたい暑さとが重ね合わせられている。そう考えると、トムの「要は暑さを忘れることだ」「文句を言ったって、十倍もつらくなるだけだぜ」(207P)の言葉は、憂鬱で面倒な現実の処世術としても響かないだろうか。そして、そういった現実に対する嫌気というのも、夏の暑さ同様一時的なもので、また現実を受け入れるタイミングが訪れるということなのではないだろうか。実際、秋になると、何事もなかったかのようにビュキャナン夫妻は元の生活に戻っていったのである。

 

以上、ギャツビーとマートルがそれぞれデイズィー、トムとの関係性に対してどのように考え、行動していったのかということをはじめに描き、次に暑さと涼しさという二項対立に重ね合わせられたリアリズムとロマンチシズムという二項対立について構造主義的批評として述べてきた。

 

 

脱構築批評の観点から

では次に、第二の観点として、脱構築批評を本作に当てはめて考えてみる。脱構築とは、一般通念として受け入れられているような、ある二つの観念の対立的関係、つまり二項対立に関して、相対するように見える観念が実は他方を含む、若しくは他方に含まれているということを示すことで、その構図を解体し、意味の多様さに開くものである。そこで、本作において対立的に提示される観念群を脱構築することで、構造主義とは異なるもう一つの読み方を提示できればと思う。

 

Ⅲ-ⅰ:ロマンチシズムリアリズム

本作において、ロマンチシズムvsリアリズムという対立軸が作品の大きな主題を成している。しかし、実際にはこの対立軸は見た目ほど確かなものなのだろうか。以下では、ギャツビーとウィルソンの例を挙げながら、ロマンチシズムとリアリズムが、それぞれ他方に支えられながら、更に言えば渾然一体となりながら存在していることを示す。

 

Ⅲ-ⅰ-ⅰ:ギャツビーの場合

ギャツビーは、言うまでもなく、本作において最大のロマンチストである。ニックをして「ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これからも二度と見いだせそうにないような浪漫的心情」(7P)と言わしめるような、稀有なロマンチシズムの持ち主である。彼は愛するデイズィーとの念願の再会を果たし、遂には彼女に、夫のトムに向かって「あなたを愛していなかった」(180P)と言わせようとする。「過去は繰り返せない」(180P)と諌められた時、彼は「そんなことがあるかという調子で」「もちろん、くりかえせますよ!」(180P)と確信を持って反論したのだった。言うまでも無く時間を巻き戻すなどということは現代科学の可能性を越えている訳で、現実的な話ではない。だからこそ、このような台詞を狂信的と言えるような態度で断言できるギャツビーは、とびきりのロマンチストである。

しかし、この強烈なロマンチシズムは、徹底したリアリズムに支えられている。ギャツビーの両親は「甲斐性のない敗残の百姓」(159P)であり、はじめてデイズィーに会った頃、彼は彼女に見合う社会的な地位も財産も持っていなかった。そんな「語るべき過去もない無一文の青年」(245P)が、「良家の娘」と結婚するためには、構造主義批評の中で述べたように、自分のステータスを彼女に見合うものへと変えてゆかねばならない。そのステータスは、彼が「西の卵」に購入した大豪邸と、そこでの夜な夜な繰り広げられるパーティーという形で実現されたわけだが、彼はその豪邸について、「あれを買う金を稼ぐのにちょうど三年かかりました」(147P)と話す。恐らく莫大な金額であろうが、これを彼はどのようにして稼いだのだろうか。少なからぬ部分を違法な手段によって稼いでいたことは確実である。トムが身辺を洗ってみたところ、ワールド・シリーズの勝負を買収したウルフシェイムと組んで、ニューヨークやシカゴで「大っぴらにエチール・アルコールを売りやがった」(221P)ということだ。実際、ギャツビーの死後にニックがウルフシェイムに直接聞いたところによれば、彼はギャツビーを「無から立ちあがらせてやった」。ギャツビーは「おとくいのために、仕事をして」いたし、彼らは「万事につけて、こんなぐあいに緊密だった」(283P)と言う。このようにギャツビーの犯罪への着手が明らかになる以前にも、ニックに「いささか内密を要する仕事」(135P)を持ちかけるなど、犯罪を匂わせる記述が幾つかある。他にも、ニックとのドライブの途中に警察に呼び止められた時、ギャツビーの車だとわかると、警官は敬礼をして彼らを解放した。以前「長官の便宜をはかってさしあげる機会」があったからだと言うが、犯罪の匂いをここに嗅ぎ出すことは難しくないだろう。また、ギャツビーに関する悪い噂が広がり始めたとき、デイズィーに伝わらないようにと、使用人を全員解雇したことなども、逆にギャツビーの犯罪を裏付けているようだ。

犯罪に関する部分の他にも、ギャツビーはデイズィーと接近するために、「入念なやり口」(130P)でニックやジョーダンを利用しようとした。ニックにデイズィーを家に招待してもらい、ニックの家でギャツビーとデイズィーが再会出来るように仕組んだりしている。

このように、現実の世界において、ギャツビーは考えられうる中で最も目的に近い方策を選択し、違法行為というリスクをも、その抜け目の無さによって回避することに成功している。「手段」という次元において、彼は「理想」や「主義」などとは無縁で、「現実」を巧みに処理することに成功しているわけだ。「デイズィーとの結婚」という「理想」を「実現」するためには、言うまでも無く「現実」を変える必要がある以上、彼の野心的なロマンチシズムが徹底したリアリズムによってしか叶えられないのは当然であろう。若しくは、彼のロマンチシズムが夢見るだけのものとしてではなく、絶対的に実現させるものとして考えられている点において、彼のロマンチシズムはリアリズムであるとも言えるかもしれない。

 

Ⅲ-ⅰ-ⅱ:ウィルソンの場合

次にウィルソンに関して、彼の一見リアリスティックな生活も、妻のマートルに具現化していたロマンチシズムに支えられているのだということを以下に示したい。

ウィルソンがリアリストである、ということに同意することは難しくはないだろう。あの夫妻が廃れた「灰色の土地」で自動車整備店を営んでから11年経っている中で、ウィルスンはひたすら仕事をするか、仕事がないときには「戸口にすえた椅子に腰をおろし、道を通る人びとや車を眺めていた」(226P)だけである。このように目の前の現実の中に埋もれてしまっている彼は、受動的リアリストと言っても良さそうだ。

しかし、トムに「自分が生きていることにも気づかないまぬけ野郎」(45P)と言われるほど、目の前の現実に没入しているのは何故なのか。それを可能にしているものは何なのか。恐らくそれはマートルの存在である。彼はマートルが自分を愛して続ける、少なくとも自分から永遠に離れていかないのだという前提=思い込みに支えられている。「彼は彼の細君の亭主であって、独立した一個の人間ではなかった」という隣人マイカリスの言葉に裏付けられている。だからこそ、マートルの浮気の可能性に気付くと、彼の現実は激変する。彼はたちまちに病気になり、マートルを自宅に閉じ込め、西部に逃れようと企むのである。そして彼女が車に轢かれて死んだ後には、彼は「狂人」のようになってしまい、もはや現実を生き抜く分別を失ってしまうのである。

人間は誰しも「どのように生きるか」を選択しながら生きており、その選択の基準は自分の価値観や信念であるという点において、目の前の現実を維持することを選択していたウィルスンの価値基準が、マートルと共に、平穏無事に暮らし続けたいという強い理想であっても不思議はないだろう。

 

以上、ギャツビーとウィルスンの例を通じて、リアリズムとロマンチシズムの二項対立を脱構築してきたが、この対立は作品全体に通底しているため、他の登場人物にも適用できるものと思われる。本レポートにおいては、字数の都合上、検討は控えるが、この流れに沿って読み直していくのは非常に魅力的であろうと思う。

 

 

 

Ⅳ結論

構造主義的批評と、脱構築批評を通じて、「グレート・ギャツビー」をほんの少しばかり読み解いてきた。ここでは、今後どのように考えを進めて行くべきかということを、課題として記しておきたい。

構造主義に関しては、3点挙げておこう。

・暑さ/涼しさとリアリズム/ロマンチシズムとのアナロジーに関して、テクストに根拠をあまり求められていないために説得力に欠けてしまっている。より綿密な読解が求められる。

・地理的な構造分析も可能なのではないか。ウエスト・エッグとイースト・エッグ、灰の谷、ニューヨークとが記号的にどのような位置づけであったのかということを考えることで、より多角的な分析が可能になるだろう。

・これらの別々に論じてきた記号体系を統合すること。これによって総合的な構造主義的批評が可能になる。そのために、個別の論について、上述したような詳細な議論が必要になる。

脱構築批評に関しては、2点。

              ・リアリズム/ロマンチシズムの脱構築を他の人物にも適用すること。

              ・別の二項対立を探して、適用すること。

              が必要だろう。

 

 

Ⅴ参考文献

グレート・ギャツビーフィッツジェラルド 野崎孝訳 1974 新潮文庫