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【映画】二大巨匠の「アンチ=ヒーロー」たち-ウディ・アレンとミロス・フォアマン

今日は小説ではなく、そもそも本ではなく、映画の感想です(・∀・)

 

ウディ・アレンの「アニー・ホール」 


以前に2011年の「ミッドナイト・イン・パリ」を観たことがあるが、やはり今回は代表作というだけあって、独特(とはいえ、他の作品の表現技法も多分に取り込んでいるわけだが)な作品だと思った。
だけどここではまず、この二作の共通点を考えよう。

ひとつは、主人公。
皮肉屋で、表面的な(少なくとも彼にはそう思えるような)社交に対する軽蔑・反発、恋人への半ば依存に近い執着などがあるだろうか。

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例えば。


ひとつは、アルビーが教授たちの集まるパーティーに妻と出席したシーンでは、妻の紹介に対してろくに反応せず、寝室に戻っては妻を昼間から抱こうとする。ミッドナイト~でも、妻の友達夫妻とのパリ観光に対して非常に消極的な態度を示し続ける。
こういった社交に対する反発はどこから来るのか?正直わからない。だが、主人公は少なくとも世俗的であることから距離を置こうとしているのは確かだ。そういったシーンは映画を観ればいくらでもあることに気が付くだろう。
世俗から離れて彼(ウディ・アレンであり、彼の作品の「主人公」だ)はどこに向かうのか?それは1920年代のパリであり、稀代のスター達(ヘミングウェイピカソコクトーフィッツジェラルド・・・)の社交場だ。自伝をよく読む必要があるが、彼の幼少期は恵まれおらず、ジャズや読書に傾倒したということなので、そういった過去が変奏されているのかもしれない。


そして次に物語の結末。

主人公は彼女にふられる。そしてまた次の一歩を踏み出す。
強気な物言いで世の中を批判する主人公は、皮肉なことに、最も大切にしていた彼女を当の「世の中」に奪い去られてしまう。彼女もまた「世の中」の味方であることが明らかになるわけだ。

 

しかし一度は絶望するわけだが、最後の最後に男はまた新たな希望を探そうと動き出す、あるいは見つけるのだ。完全な絶望で終わるストーリーでは無い。


世間に対する反発と、内面世界への親近≒恋人との愛に縋るものの、最終的には世間に敗れてしまい、だけれどまたそこから立ち上がる、という流れ。どこかミロシュ・フォアマンを彷彿とさせる。

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ミロシュ・フォアマンもまた、アンチ・ヒーローを主人公に据えた作品を数多く手掛けている、というか少なくとも私はそういう作品しか観たことが無い。初の長編「黒いペトル」から始まり、「ブロンドの恋」やら「カッコーの巣の上で」やら「アマデウス」やら「マン・オン・ザ・ムーン」やらやら・・・どれも「皮肉!」としか言いようがない結末で終わる(「黒いペトル」はそうも言えないか・・)。ウディの主人公と同じく、フォアマンの主人公も「常識」とか「社会」とか「体制」といったマジョリティとの戦い・そして敗北というのが、ユーモアあふれる描写と共に描かれる。違うのは主人公の反発の「方法」と、結末の描き方である。


まずウディ・アレンの主人公だが、「臆病なひねくれ者」と言った感じに近い。世間に対する反発を表だって表明することはせずに、世間との繋がりともいえる「彼女」を通して間接的に批判していく。一方、フォアマンの主人公は、「カッコーの巣の上で」などを観れば一目瞭然だが、非常に攻撃的であり直接に社会と対峙する気概、勢いを纏っている。ここには媒介などは存在せず、常に主人公が社会にとっての「台風の目」のような存在として脅威となっているのだ。

結末に関しても述べておこう。ウディ・アレンの映画に関しては、エンディングにおいて、その社会との敗北の向こう側に光明が兆すわけだが、ミロシュ・フォアマンにおいては敗北で終わったり、中には「死」で結末を迎えるものも少なくない。闘い方と考え合わせてみると、当然の差異ともいえるだろう。

 

 

 

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