高慢と変態

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ケンコーホーシ、アラマシ

徒然なるままに、日暮し。ものぐるほしけれ。

 

明けましておめでとうございます。

といっても、更新をサボっていた間、僕は特におめでたいことはありませんでした。

これは新年を無事に迎えることが出来たことを祝う言葉なんでしょうか。でも巷のサラリーマンにとっては、決算が終わる3月末までは「無事」とか言ってられない心境だったりするんじゃないのか、と思うんですが。

まあ、社会人童貞なのでわからないですけど。少なくとも卒業出来るか危うい学生の身としては、3月中旬の成績発表までは「何にもおめでたくねえぞ」って思います。

でもまあ、とりあえず僕に限って言えば、他の誰かに対しては、「きっとこの人は新年をおめでたい気持ちで迎えたんだろうなあ」と勝手に推断して、気兼ねすることなく新年の挨拶をしてきましたし、これからもし続ける所存です。

 

新年を迎えるとともに、気分一転、新しいことにチャレンジしたいっていう人、沢山いますよね。「今年こそ痩せる!」とか、「彼女を作る!」とか、「ギターを弾けるようになる!」とか。僕もそう、去年の1月1日には、「バンジージャンプを飛ぶ!ピアノを弾けるようになる!」とか手帳に書いてました。・・・勿論、バンジージャンプなんてしてないし、家にはピアノもキーボードも無いままです。そのメモ書きが目に入るたびに、誰に対してかわからない後ろめたさがじわじわっと湧いてきます。

 

「やりたい!」ってあんなに強く思っていたはずのことを、ついに達成することなく、いや、チャレンジすらすることなく、時間を無駄にしてしまうことが、(僕の)人生にはどうしてこうも多いのだろう・・・

 

 

人間には、「じゃんけん理論」があると思うんです。

「思考(理性)」は「行動」を左右する。

「行動」は「感情(欲求)」を左右する。

「感情(欲求)」は「思考(理性)」を左右する。

こういう三つ巴の関係だけで人間を説明するのって、もちろん正しくないし、大雑把で乱暴なんだけど、でも当てはまることって、あると思う。

 

小説を読む。感動する。主人公みたいにかっこよくなりたい。主人公と同じように、〇〇をしたい。でもそんな理由じゃ周りのみんなは納得してくれないかもしれない。だから、将来のためになるとか、なんとなく耳触りのいい理由をこしらえて、自分の望んだ行動を正当化する。〇〇に入る単語は、サッカーでも、バンドでも、研究でも、起業でも、恋愛でも、いい。

 

「行動」が「感情」を左右するっていうのは、正直全然正しくないかもしれない。「環境」が「知覚」されて、それが「感情」を左右する。その最初の「環境」に影響を与える限りにおいて、「行動」が「感情」を左右することもある。大事なことは、自分の「外」のモノとか人が、自分の「中」を変えてしまうってこと、逆に自分の「中」が、「行動」を通して、「外」に影響を与えるってこと。そして変化した「外」を通して自分や他人の「中」が変わっていく。そうやってたくさんのことが変わっていく。

「外」の世界って、当たり前だけど常に変化してる。取るに足らない変化ばかりじゃなくて、人の内面を動かすくらい大きな変化も数えきれないくらいあるから、感情も、ある程度の強さの変化を「外」から受けて、変わってく。

 

元旦に宣言した誓いが、達成されず、年末に振り返ることすらされないのも、外部からの影響を受けて、絶えず内面が揺れ動いて、いつの間にか宣誓した時の自分とかけ離れたところに気持ちが飛んでいってしまうから、なんだと思う。

久々の友人とばったり会って話込んでたら面白い話を聞いたとか、読んでた本の登場人物の仕事がかっこよかったとか、本当にそんな些細な出来事。転がったボールが、石ころにぶつかって進む方向を変えてしまうような、そんな容易さ。

 

自分の内面の変化、行動の変化も、些細なものだったら、別に書くほどのことでもない。問題は、自分の人生を左右するような意志決定を覆してしまうような変化が外部からやってくることもある、ということ。

自分自身が体験しているし、同じ体験をした友人を、僕は知っている。

悔しさとか、そういうものじゃない。むしろ、怖さに近い。あんなに意気込んでいた自分はどこに行ってしまったのかという不可解さ。あんなに強く固めていたはずの意志が、いつの間にか霧消してしまったという事実の恐ろしさと無力感。

 

ところで、僕は学校で徒然草の授業を取っています。兼好法師は「あらまし」というものについて否定的なんです。「あらまし」って、現代語訳すれば「予定、希望、意向」というような感じになると思うんですけど、そんなもんは「縁」によって頓挫するばっかりだから、「あらまし」を当てにするなって言ってるんですね。「縁」は今とそこまで意味は変わっていませんが、まあ「偶然自分の身にやってきた出来事、モノ、人との出会い」みたいなところだと思います。結構さっきまでの話と近くないですか?近いですよね?

兼好法師だけが「あらまし」について考えてたわけじゃなくて、当時「あらまし」という単語を含む短歌っていうのが多くの歌人に詠われていたみたいで、昔の人もそんなことで悩んだりしてたのかー、なんてぼけーっと思ってました。

 

その中の短歌のひとつに、こんなものがあります。

あすとだに またれぬ程の 老の身は 命の内の あらましもなし

(超絶意訳:(いつ死んでもおかしくないので)明日でさえ待つことが出来ないほどに老いてしまった人は、その命の続く間に予定など立てたりしないものだ)

要は「(死にそうな)明日やろうは馬鹿やろう」ってことでしょう。良い言葉だとは思いますが、正直、これを唱え続けでも、実際その通りに生きられる自信はまったくありません。この短歌の場合、死のリアリティーが、この言葉に強い影響力を感じさせてるわけで、僕のように現実の「強い何か」に支えられていない言葉として聞く場合、この言葉は力を発揮できない。

 

ここでさっきの話に戻ると、常に変わらない行動をするためには、じゃんけん理論に沿って考えるならば、常に変わらない思考をすればよくて、もっと遡れば、常に変わらない感情を持てばよくて、もっともっと遡れば、常に変わらない知覚、感覚を持てばよい、ということになるはず。そして、外界は常に変化するのだから、それに伴って変化してしまう内面を一定に維持することが出来ず、その結果、一貫した思考・行動が出来ない、それが悔しい、そんな話でした。

でも、もし、自分の知覚・感覚・感情を一定に出来たら?さっきの短歌にはそんな希望を浮かび上がらせてくれるものがあった気がする。それは、「思い出すたびに繰り返し同じ感覚・感情にさせてくれる、鮮烈なイメージ」じゃないか。あの歌人は、自分がもうすぐ死ぬということを考えるだけで、冷や汗を流し、鼓動が速くなり、呼吸が乱れたりするかもしれない。繰り返し再生可能な強烈なイメージが、繰り返し強烈な身体感覚とか感情を再生する。それが内面を保つことを助けてくれるんじゃないか。

それは誰かにとっては過去のトラウマかもしれない。あるいは成功した時の輝かしい自分のイメージかもしれない。あるいはある行為自体の喜びかもしれない。そういう常に「今」によみがえってくるものを、自分の行動に結びつけることが出来るんじゃないのか。

 

 

「根性なしの言い訳ね。はい、お疲れ。」で一蹴されるような話かもしれませんが、実際そうなのかな、とも思います。でも、これが言い訳に過ぎないとしても、こうして文章にすることで希望を見出すことが出来るのなら、何も書かずにふさぎこむよりはずっといい。

 

 

まあ、とりあえず

(何日間か仕事や学校を休めたことに対して)明けましておめでとうございました。