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【小説】傾いた異邦人

町が、傾いている。
もしかすると傾いているのは僕の方かもしれない。
僕にはどちらでも良かった。

今朝、ヨシノブを目一杯歩かせてやろうと思って随分早くに起きた。
最近は厄介な仕事ばかりが飛び込んでくるから、深夜にぐじょぐじょになって帰ってきて泥のように眠りこけ、遅刻ぎりぎりのラインになってやっと起きだし(とはいえまだ泥は乾ききっていない)、再びぐじょぐじょになるために会社に向かわなければならない日が続いていた。ヨシノブを散歩に連れて行ってやる気力は残っていなかった。

ベッドから起き上がってドアを開け、薄暗い廊下に出る。右側の壁に手を触れながら廊下を歩き、手のひらに伝わるひんやりとした感触を味わう。そうして進んでいると、やがて右手は壁よりも更に冷たいドアノブにぶつかる。僕はそこで立ち止まり、そのドアを開く。ふわっとした朝日が視界を優しく覆う。
コンクリートの壁に四方を囲まれた、正方形の間取り。畳張りの床には何も置かれていない。壁には窓は無く、一つとして装飾も存在しない。天井の中央部に直径一メートルほどの丸ガラスがはめ込まれており、そこから差し込んだ日光が畳の上に月の様な模様を映している。

ドアを背にして左側の壁に、小さな穴が空いている。天井に近い場所に空いたその穴からは、象を縛り上げることも出来ると思われるほど、非常に太い鉄鎖が垂れている。僕はその鎖を両手でがっしりとつかむ。その重厚な光沢からひんやりとした感触を期待するが、手のひらには温度が感じられない。不愉快だ。鎖をがっしりと掴み直し、左足を壁につける。深呼吸を一つ置いてから、僕は半ば鬱憤を晴らすように、ぐんと鎖を全力で引っ張った。鎖は穴から少しだけ伸びたところで急に止まり、そこからは梃子でも動かない。それでも僕は引っ張り続けなければならないことを知っている。歯を食いしばりながら僕の腕よりも太い鎖を懸命に引き続ける。頭に血が上り、呼吸もだんだん苦しくなってくる。大体いつもそのタイミングだ。急激に鉄の鎖は温度を上げ始める。手のひらと鎖との間に差異が急速に増大し、遂には皮膚を焦がすかと思うほど熱くなる。もう握っていられないという限界に辿り着く直前、ブチンという音を立てて、鎖が千切れた。僕は勢い余って畳にどすんと尻もちをつく。乱れた呼吸を整えながら、千切れた鎖を見つめる。いつの間にか鎖は普通の鎖のような金属的な冷たさを伴っていた。なんなのだろう、これは。僕は興味深げにその鎖を眺めるが、相変わらず何も得るところは無い。畳の上に鎖を放り投げ、うんざりしながら部屋を出た。

リビングのドアを開けると、既にヨシノブがソファに座っていた。僕は彼に声を掛けた。

ファニーフェイス。やあ、ヨシノブ。

今朝は何だか匂うなあ。

何も匂うもんかい。馬鹿なこと言うな。

匂うぞ、匂う。何だこれは。

いい加減にしたまえよ。わざわざ早起きして歩かせてやろうと言うんだから、少し黙れ。



僕はひとり朝食を済ませ(ヨシノブは朝食も食べない)、トイレを済ませ、身支度を整えて玄関へと向かった。ゆっくり味噌汁なんか啜っていたら、時間が随分と経っていた。今日はシャワーを浴びることが出来ない。仕方が無い。

僕が玄関前に座ってランニングシューズの靴ひもをきつく結んでいる間、ヨシノブは玄関のドアに向かって鼻をこすりつけている。黙ってはいるものの、まだ嗅ぎまわっていやがる。でも、ドアを?

ああ、匂う、匂うなあ。

僕は何も言わない。右足の靴ひもを結び終え、左に取り掛かる。以前に雨の中を散歩してやった時に跳ねた泥が靴のあちこちに固まってこびりついていた。無性に腹が立ってきて、明日から当分の間は散歩に出してやらないことに決めた。僕が立ち上がり、ドアノブに手を添えるや否やヨシノブがつぶやいた。

君、ドアを開けるということが何を意味するのか知っているのかい?

区切られた空間を繋げるということを意味するのだろう。

それが危険を伴うということを知っているのかい?

知っている。しかしその危険の程度は、開くドアによって異なるし、このドアはほぼ安心だ。

本当にそうかい。

少なくとも、このドアを閉じたままにしておけばいずれ僕は餓死するだろう。

そういう問題じゃないさ。今日だけ我慢すれば、多分やり過ごせる。

そうは言っても、僕はもう鎖を千切ってしまった。

鎖を千切ることに何の意味があるのか君は知っているのかい?

いや、知らない。もういい、行こう。


掴んだままのドアノブをひねり、ゆっくりとドアを開く。ヨシノブが無表情に僕のことを見詰めているのを視界の端で捉えながら、新しく繋がれていく空間へと目を向ける。ドアの動きに対応しながら視界に飛び込んでくる景色が広がりゆき、開け放った時点では、僕は既にドアを開けたことを後悔していた。

ほら、言わんこっちゃない。

捻じれているわけではない、単純に傾いていた。地面の傾きに沿って、木も山もビルも車も、そして人も、全てが傾いていた。
なぜ傾いていると理解できるのだろう、と僕は考えた。本当は考えなくても直観的に理解出来る事柄なのだけれど、気持ちを落ち着かせるためにも思考を介在させることが大切だと思った。僕たちと、そして僕の家が傾いていない――正確に言うならば、僕たちと外の世界との間には傾きの差が存在している――からだという結論に至った。では、実際に傾いているのはどちらなのか? なぜ傾いているのか? 答えを出すには材料が足りないと思ったし、幾分か冷静になることが出来たので、僕は考えることをやめ、傾いた世界へと足を踏み出した。

晴れていた。僕の皮膚は日光を貪欲に飲み込みながら、はち切れんばかりに興奮しているようだった。それはヨシノブも同じだった。僕自身はそれを喜ぶこともなく、ただ黙々と歩いていた。僕は無限に拡がる斜面に足首を捻らないように慎重に歩いた。ヨシノブは僕の少し前を跳ねるように歩いている。振り返って僕に言う。

ほら、言わんこっちゃない。

僕が憎々しげに睨み付けると、ヨシノブは気にも留めない様子で前に向き直った。
それにしても、ヨシノブはどうしてそんなに軽い足取りで歩くことが出来るのだろう、と僕は思った。横向きの勾配を歩くというのは、坂道を上る以上に骨が折れることを痛感している。僕としては横向きに曲げなければならない足首が心配で仕方がないのでもう少し歩みをゆったりさせたいのだけれど、ヨシノブはまるで深夜の赤信号を渡るかのように平気な顔をしている。

四苦八苦しながら街を歩き回るうちに、いくつもの驚きに遭遇した。まず一つ目の驚きは、さっきも言った通り、行き交う人たち(と言ってもまだ早朝なので、多くは老人か、医者に勧められてウォーキングを始めましたという風な肥満体型の男性だ)が道に平行になって――つまりは道と同じように傾いて――歩いていることだ。僕とヨシノブのように足首を不自然に曲げながらぎこちなく歩くのではなく、まるで物理法則に従っているかのように至極自然な足並みで歩いていた。そして電柱に架けられた電線も、真下に垂れるのではなく、傾いた道路に垂直になるように垂れている。どうやら僕達だけが地球の重力方向の変更の通知を受け取っていないか、もしくは受け取ったことを忘れてしまい、適切な手続きを取るのを怠ってしまったようだった。もちろんそんな通知が郵便受けに入っていた記憶は無い。

どうだい、どうしてこんな奇妙なことになっているのか、見当はついているのかい。

もし見当をつけられるとしたら、きっと僕はノーベル物理学賞か精神病棟への特急券を貰えるだろうね。

ヨシノブが震えるような小刻みな笑い声を漏らした。この笑い声だけは、いつまで経っても一向に慣れない。

そんなら、他の人に聞いてみたらいいじゃないか。どうしてあなたたちは傾いているのです? どうして僕達だけが傾いていないのですかってね。

僕はヨシノブを無視した。

そして二つ目の驚きは、重力に取り残された僕達の哀れな歩き方を見ても、他の人々は何の印象も持っていないように見えることだ。僕とヨシノブが公園の脇を通りすがろうかというところで、滑り台の近くで体操をしていた老人が僕達に挨拶の声を掛けてきた。向こうから声を掛けてきたのであれば話は違ってくる。僕は挨拶を返し、公園の中に入って老人の方へと歩み寄った。そして他愛もない世間話を少しばかりこなした後、僕は思い切って尋ねることにした。

あのう、私にはあなたが傾いているように見えます。勿論あなたから見れば私たちが傾いているように見えるのでしょうが……一体、どうしたというのでしょうねえ……?

老人は相好を崩し、からからと笑った。健康的な浅黒い顔に刻まれた無数の皺が強調される。

「そりゃああんた、ご自身がなさっていることを考えれば一目瞭然というものですわい。まだ寝惚けておられますなあ」

老人が何を言っているのかさっぱりわからず、同じように困惑しているに違いないヨシノブの方を見ると、小刻みに声を漏らしながら笑っていた。どうやら僕に非があるようだ。

非常に奇妙なことをおっしゃいますね。あなたと私は今朝ここで初めてお会いしたものとばかり……まあそれは良いでしょう。で、一体私が何をしたと言うのです? 思い返してみてもさっぱり……

こんな老人が知っている訳がないだろう、僕は老人が言葉に詰まるのを予想して、使えそうな皮肉を頭の中に散らかった小説の台詞から拾い集めていた。しかし残念ながら僕の記憶力はあまり自慢できるものでは無かった。そして更に残念なことに、老人は言葉に詰まるどころか僕を驚きの表情(台風のせいでテレビの映像が粗雑になるように、無数の皺のせいでその表情から感情を読み取るのは難しかったけれど、たぶん驚きを示していた)で見つめ、非難めいた口ぶりで答えた。

「なんにも奇妙なことなんか無かろうて。鎖を毎朝むしりとってるでしょうが。あんたはそれが何を意味するのかご存知でないっちゅうことですかい?」

ヨシノブが我慢の限界だというように、がはは、と張り裂けるような笑い声を響かせた。身体を大きく揺らしながら腹を抱え、今にも地面に倒れ込みそうな勢いだった。老人も再びからからと笑い声を上げた。僕も無理やり口元に笑顔を作り、その場の雰囲気に合わせようとしたが、老人には不愉快だったようだ。無表情に黙り込んだ老人から逃げるよう、一礼をして公園から出た。

僕は家に帰ることにした。まだ散歩の時間は充分に残っていたけれど、これ以上あの傾いた道を歩いたら仕事にも支障が出るだろうと思ったし、ヨシノブが僕よりもあの老人の味方のように笑っていたのが癪に障った。散歩の打ち切りについてヨシノブは何も文句を言わず、相変わらず僕の前をご機嫌な様子で歩いていた。

住宅街の角を曲がり、自宅が視界に入る。歩きながら、ポケットから鍵を取り出す。右手で鍵を弄んでいるとヨシノブが尋ねてくる。

浸透圧って知ってるかい?

詳しくは知らない。濃度の高い方から低い方へと溶液中の成分が移動する時の圧力のことだったか。

まだ怒っているんだぞ、ということを分からせてやるために僕はヨシノブにそっけなく答えた。

うんうん、それだけ知っていれば問題はなさそうだなあ。

残念ながらヨシノブに理解させるには回りくど過ぎたようだ。溜息が漏れてしまう。

鍵を回し、ドアを開いた瞬間、僕がどれだけ驚いたかわかってもらいたい。家を出る前は確かに何ともなかったはずの室内が、帰って来ると、外の世界と同じように傾いているのだから。フローリング、淡いオレンジ色の壁紙、埃を薄く被った照明、全てが少しだけ角度をずらされたかのように傾いている。靴を脱いでリビングに入ってみても事情は同じだった。観葉植物、灰色のカーペット、電池式の壁掛け振り子時計(傾いているのに振り子は支障なく振り子だった)、こんもりと積もった灰皿などが、大人しく物理法則の変更に従っていた。
僕は試しに鍵が入っていたのとは逆側のポケットをまさぐり、百円玉を取り出した。僕は常に小銭をポケットに入れておかなければ不安になってしまうのだが、そんな話はどうでもよい。取り出した百円玉を縦にして、慎重にテーブルの上に置いた。ゆっくりと手を離してみたが、百円玉は決して倒れることはなく、軍隊式の「気を付け」のようにぴくりともせずに立っていた。

随分と好奇心を刺激されたようだなあ。

ヨシノブがソファにうつ伏せに倒れ込みながら僕の方を見ている。大きく左に歪んだ笑みが何とも不快だ。

さっきも言ったように、浸透圧のせいだよねえ。

ヨシノブが言っていることを理解するのは難しい。

君がドアを開けたから、外から家の中に浸透して来たんだよねえ。

僕は百円玉をぴしゃりと横に倒し、ヨシノブの方を向き直って言った。

僕がドアを開けたから、何が浸透してきたっていうんだい?

お馴染みの震えるような笑い声を響かせて、ひとしきり腹を抱えた後で、

そんなことは君が良く知っていると思うなあ。もう寝るね。

そう言ってそのまま眠りこけてしまった。少し早いが、仕事の支度をしよう。


喧騒、書類、ペン、喧騒、来客、エレベーター、喧騒。
出社してみると、今日はやけに社内が騒がしかった。もちろんオフィス内も傾いているが、それはどうやら関係が無さそうだ。僕が自席に腰を下ろし、鞄から必要な書類を取り出していると、僕が日ごろから可愛がっている後輩のYがやってきた。ただならぬ様子とはこういう表情を言うのだろうと思った。僕はどうしてそう切羽詰まっているのか尋ねた。するとYは怒るように言った。

「なんでって、もちろん切羽詰まりますよ! 今日が何の日だか、先輩は忘れちゃったんですか?」

つっけんどんな言い草に僕もむっとしたが、ここは先輩の度量を見せる良い機会だろうと思い直して、どんな事情があるのか、天使の羽のように優しく尋ねてあげた。すると信じられないと言った顔をしたYに怒鳴りつけられた。

「なんなんですか! 今日はB社の取締役が訪問する日でしょう!」

どうしたらこんなに重要なことを忘れていられるのだろう。そうだ、うちのサービスの質に疑問があると言って、もう一度契約について話し合いたいとB社の取締役が直々に来社することになっていたのだった。更に言うならば、僕はその事業部長として、取締役からの厳しい質疑の矢面に立つ役割まで果たさなければならなかったのだ。こんなことを忘れるというのは、どう考えてもあり得ない。しかし現実に、今までまるでそんなものは存在しなかったかのように意識に浮かんでこなかった。僕はYに取締役の来社時刻を確認した。渋滞に巻き込まれてしまい、どうやら来社まではあと一時間と少し、というところらしい。
僕は、今から急いで資料を作るから君は必要な情報を僕が言った通りに集めてくれたまえ、とYに指示を出したのだが、Yはもはや顔面蒼白と言った感で、何か恐ろしいものでも見るような視線を僕にぶつけた。

「あの……資料なら今、ご自分で鞄からお出しになって、そこに……」

そんな馬鹿な、僕は事務机の上に放り出されたファイルに目をやった。そこには今日のプレゼンテーションのための資料が、きちんと束になって作成されていた。心臓が止まるかと思うほど驚いたのだが、僕はそれを表情に出さず、ああそうだったね、と冷静を装った。演技は殊の外うまくいったようだった。Yはいくらかほっとした様子で、

「最近お忙しそうでしたから、無理もありません。くれぐれも健康にだけはお気をつけて」

と言って自席に向かって行った。僕はきっと、コーヒーでも飲んだ方が良さそうだ。
女子社員に頼んで持ってきてもらったコーヒーをすすりながら、考える。

疑問1:プレゼンを忘れていたことと、僕が傾いていることとの間には何か関係があるのだろうか?
疑問2:今日のような状況は、明日以降も続くのか? 続くとしたらいつまで?

大きな問題点はこの二つに集約される。まずは疑問1から考えていこう。
単純に考えて、プレゼンを忘れてしまうという事態は僕の意識の問題であり、傾いているというのは僕の意識の外の問題だから、それが直接的に繋がっているということは有り得ない。傾いているというのが僕の錯覚だとしたら? いや、それはない。この傾いた世界で動き回る(こうして椅子に座っているのも負担ではあるけれど)苦労にはかなりリアリティがあるし、第一ヨシノブと僕だけは傾いていないように見えているのに対して、他の人は傾いているように見えているのだから、僕の意識の問題にするのは少し無理があるのではないか。もし僕の目がおかしくなっているのなら、ヨシノブも傾いて見えるはずだ。
うん、きっと関係など無いのだ。起きたら世界が傾いてしまっていて、僕は驚きのあまり仕事のことをすっかり忘れてしまっていただけなのだ。「世界が傾いているという」前提がそもそも不自然すぎる訳だが、現に傾いているのだから受け入れるしかない。

疑問2に関しては、材料が足りない。どうして世界が傾いているのか、見当もつかないのだから。……いや、違う。今朝の散歩の時、公園にいた老人が奇妙なことを言っていたじゃないか。鎖をむしり取ったからだろう、とか何とか。しかし、なぜ老人はあの鎖のことを知っていたのだろう?

Yが僕の席へ走って来て、取締役が到着したことを告げた。僕はそれまでの思考を放棄して、エントランスへと出迎えに向かった。
小雨が降りだしていたようだ。往年のプロレスラーのような体格の男性が、ロビーの脇に置かれた革張りのソファに窮屈そうに座り、金色の刺繍入りの茶色いハンカチで雨に濡れた肩を神経質に叩いていた。僕は恐る恐るこの男性に近寄って行き、肩越しに声を掛けた。ようこそ取締役、お待たせして申し訳ありません。ハンカチを持った手をぴたりと止め、ゆっくりとこちらに顔を上げる。

「ああ、君か。ふん、予報では晴れと言っておったのに、急に降り出してきよる。なんだかずいぶんと暗示的じゃないか、ええ?」

僕は穏やかな微笑で受け流す。僕はこの取締役があまり好きではない。傲慢の塊のような人だと思う。還暦を目前に控えるにしてはあまりにも屈強な肉体も、解剖してみればタンパク質ではなく傲慢さが詰め込まれているだろう。不幸なことに僕と取締役には長い付き合いがあるのだが、年を重ねるごとにその体格は大きくなっていき、比例するように傲慢さが凶暴なまでに増大していっている。いつか空気を入れられ過ぎた風船のように、破裂してしまえばいいと思う。僕は猛り狂った取締役への敵意を麻酔銃で寝かしつけ、とっておきの営業スマイルを顔に着けて取締役を迎える。本当に雨の中お越し頂いて恐縮です、早速ご案内いたします。

コツ、コツ、コツ……取締役を先導しながら社内の大理石タイルの敷かれた廊下を歩く。その大柄な体格から論理的に帰結する大きな歩幅と、来社直後から感じられる苛立ちとのせいで、取締役の歩く速度は驚くほどだった。僕はそんな彼を先導する必要があったので、滑稽なくらい速く足を回しながら廊下を進む。廊下は残念ながら横向きに傾いている。何度か足を挫きそうになるが、背後の取締役に「遅い!」と怒鳴られる前に急いで態勢を持ち直す。角を曲がると廊下は縦に傾き、下り坂になった。自然傾いている僕だけが下り坂の恩恵を享受できるため、僕の歩みだけが速度を増す。しかしあまり速く歩いてしまっても取締役に「速い!」と言われるだろうから、僕は速度を一定に保った。下り坂のおかげで歩みに余裕が生まれたので、何となく廊下に沿って開いているドアを通りすがりに覗きこんでみると、Yが女性社員(確か今年入ったばかりの子だ)と仲良さそうに話していた。僕はYのことが無性に憎らしくなった。

やがて僕達は廊下の突き当たりの会議室に辿りつき、僕はドアをゆっくりと開いた。どうぞ、と取締役を先に入れるように脇によける。鼻息を威厳たっぷりに吹き出しながら、取締役が室内に入り、こちらが言う前に適当な椅子に腰を下ろした。まあ別に構わないといえば構わないのだけれど。僕は取締役と向かい合う椅子に腰かけ、さっきの女子社員と話を終えてやって来たのであろうYが僕の隣に座った。頑張りましょう、といった真剣な表情でYがちらと僕を見つめたが、僕はそれを無視して取締役との会議を始めた。早速本題に入りましょう。サービスの質に関して疑問がおありとのことですが、具体的にはどの部分に関してそのようにお考えですか? 目の前の男はゆっくりと、低音を響かせながら答える。

「一部の従業員に不安がある」

それが事実だとすると、深刻な問題です、と相槌を打つ。その従業員のお名前はお分かりですか?

「君だよ、君」

僕はひどく驚いた。そしてすぐに怒りが身体の底から湧き出てくる。取締役、それは心外でございます。取締役と私とは長年の付き合いですが、初めてそのようなご指摘を頂きました。しかし私の能力、勿論性格にも何らの変化はございませんし、私的な領域に関しても私の身は完全に潔白でございます。僕は面と向かって反駁した。半ば取り乱していたかもしれない。

「どんなに清廉潔白な人物にもシミの一つや二つ存在するものだがねえ」

と、取締役はごつごつした自分の拳をさすりながら、獣のような残忍さを帯びた笑みを浮かべる。内心の恐怖が外面に現れるのをすんでの所で抑えながら、では取締役の目には私のシミが無数に映っていることと存じますが、具体的には何が問題だとお考えでしょうか? と尋ねる。

「鎖に決まっとろうが。あれを千切り続けるのは良くないことだからな」

公園の老人と言い、なぜ僕の家の事情を知るはずの無い人間が、僕が部屋の鎖を毎朝千切らなければならないことを知っているのだろう? 僕は不思議に思って尋ねてみる。なぜ取締役があの鎖のことをご存じなのですか?

「全ては繋がっている。そしてあの鎖は世界に繋がっているし、鎖とお前も繋がっている」

僕はもう一度、正確に質問に答えるように要求した。しかし取締役は怒りだした。

「ともかくだ、お前さんがあの鎖を千切り続けることを止めなければ契約は打ち切らせてもらう」

しかし、あれを千切り続けることを止めることは出来ないのだ、と僕は答える。
その通りだ、と取締役は答える。

「しかしこのままでは我が社に影響が及ぶ可能性があるんでな。悪く思わんでくれよ」

そう言って取締役は立ち上がり、会議室を出て行こうとドアを開いた。僕達は慌ててそれを引き止めようとするが、耳を貸す気の無い取締役は既に廊下へと出て行った。僕はそれを追い駆ける。いかにもナンセンスな言い分によって、我が社の命運、そして僕のキャリアが破壊されそうになっているのだ。少なくとも取締役の言葉の中に、あの鎖と会社との関係性の中に、合理的な理解を可能とさせるような糸口を見出す必要がある。偶然踏みつぶされてしまった蟻のように、訳も分からず人生を破滅させられるのだけはごめんだ。
取締役の後に続き、質問を投げかける。あの鎖と御社とがどう関係するというのです? 明確なお答えを頂かなければ納得できません。後が無いとこれだけ人とというのは必死になれるものなのだ、と僕は叫びながら思う。しかし取締役は速度を緩めることも、僕の方をちらと振り返ることもせず、ものすごい勢いで廊下を闊歩し続けながら、こう答えた。

「あの鎖は君を傾ける。そして君と繋がったものをも傾ける。業績が傾いたら困るだろう。がはは」

僕と繋がったものを、傾ける? それが比喩であることはわかる。次の問題は、その比喩が何を意味しているのかを具体的に理解することだ。しかし残念ながら、それが比喩である以上、それは比喩で語られるべきものなのかもしれない。僕がその言葉を越えていくことは許されていないのだろう。
あっという間にエントランスに辿り着き、取締役はそのまま自動ドアから玄関口へと出て、待たせてあった黒塗りベンツの後部ドアが運転手によって開かれる。取締役が乗り込む直前、僕は呼びかける。わかりました。何とかしてみせます。時間を下さい。すると、ドアを開いて立っている運転手が答えた。取締役に非常に似た声だった。

「明日までに何とかしなさい」

運転手は後部ドアを閉めると、そそくさと運転席に乗り込み、ベンツは一瞬のうちに僕の視界から消えた。僕はため息を漏らす。今日という日がもう一度来るとしても、僕は今日の経験を活かしたからと言ってたいして上手くやり過ごすことは出来ないだろう。問題の原因が分からなければ問題の解決のしようが無いし、抱える問題の全体像が見えなければ、どうやってその問題を回避すればいいのかも分からないのだから。

「大変なことになりましたね……でも、きっと大丈夫ですよ。先輩ならきっと帰って来れます」

背後からYが声を掛けてきた。存在感の無いやつだ。振り返ってみると、Yの最大限の同情と激励を示す仮面の下から、冷笑と軽蔑の顔がはみ出ていた。僕の心は殆ど麻痺してしまっていたから、特にどうとも反応を示さず、Yの横を通り過ぎてオフィスに戻った。Yは何も言わずに後を付いてきた。
自席に座り(Yも黙って自分の机に向かったようだ)、女子社員に頼んで再び持ってきてもらったコーヒーをすすりながら考える。そうだ、今や僕がこの会社のために出来ることは、この会社の中には存在しないのだ。僕の個人的な問題(だと思っていたもの)を「解決」することが企業の問題に直結する。僕は鞄を掴み、いや鞄すら必要が無いことに思い当たって再び机の上に置き、手ぶらで外へ出た。

雨は上がっていた。相変わらず雲がちな空ではあったが、その切れ目からは僅かに陽光が漏れ出ており、それだけのことでも随分心持ちとしては変わってくるものだ。たとえ道が(数の点から言えば、僕が、と言うべきなのかもしれない)少しばかり傾いていたとしても、シャツにこびりついた米粒程度に思えてくるくらいには。玄関を出るとツツジの生垣が正面で出迎えてくれる。生垣に沿う形で左に20メートルばかり続くアスファルトのスロープが濡れ、てらてらと光っている。湯気こそ立っていないが、地面から立ち上る蒸気の柔らかな質感は僕の皮膚の毛穴という毛穴から体内に入りこみ、ありとあらゆる僕を包み込んでくれている気がする。何だか急に自信が湧いてきた。取締役との話の中で大いに心を抉られたが、そのおかげで花の香りや雨上がりの爽やかさが心の奥底にまで届いたようだ。

スロープを下りきったところで、不意に後ろから声を掛けられた気がした。が、僕は振り向かずに歩き続けた。するとバタバタと荒い足音が段々と大きくなってきて、ついに僕の肩に手の感触がもたらされた。Yだった。

「これ、忘れ物です」

鍵だった。何の?

「家のではないのですか?」

違う。鍵ならここにある。僕はスーツの右ポケットから家の鍵を取り出して見せた。Yは少し首をひねった。不愉快そうな表情だった。悩んでも仕方がないといった風情のYは、やがて苛立たしげにこう言った。

「いずれにしても、これは先輩の忘れ物です。間違いありません」

そして僕が家の鍵を乗せた右の手のひらに、その鍵を重ねた。冷ややかな感触ではあるが、その鍵には金属特有の重みや存在感が無かった。ふと、それは僕の鍵だと思った。何に使う鍵なのかは、未だにわからない。僕はそれを家の鍵と一緒に握りしめ、右ポケットに放り込んだ。Yがこちらを見つめ、僕が何か言うのを待っている素振りだったが、僕は何も言わずに振り返り、そのまま立ち去った。Yも何も言って来なかったし、再び駆け寄ってくることも無かった。Yはまだこちらを見ているだろうか。いや、Yのことなど、どうだってよい。我ながら自分の冷淡な態度には内心辟易するほかはないのだが、他に取り得る態度が考えつかないのだ。Yの視線を背中に微かに感じながら、なぜだか口元が緩んだ。

しかし、帰ったところで何をすればよいのだろう? 今回の場合、「解決」とは何を指すのだろう?
取締役の機嫌を回復し、B社との契約を続行させること。「傾き」を無くすこと。若しくは、B社との契約を打ち切っても我が社の存続を可能にする手段を見つけること。若しくは、僕が会社を辞めても食べていける手段を見つけること……

角を曲がり、自宅が現れる。僕はスーツの右ポケットから家の鍵を取り出した。そうだ、とにかくまずはヨシノブと相談する必要がある。二人で考えれば思いがけない突破口を見つけられるかもしれない。

ただいま、玄関で革靴を脱ぎ捨て、ドタドタとリビングへと向かう。ドアを開けると、ヨシノブがソファに寝そべっていた。目を開けて、仰向けになって天井を見つめている。足をこちらに向けて寝転がっているヨシノブは、面倒くさそうに頭を少し上げて、おかえりと言った。
僕はダイニングテーブルから椅子を一つソファの前まで持ってきて座り、会社での出来事をヨシノブに語り始めた。まるで泳げない人間がビート板を使ってバタ足をするように、話には無駄な力が入り過ぎてしまい、細部や関連性の薄い事象がノイズのように鏤められ、本筋は遅々として進まなかった。ヨシノブは僕の話を遮り、表情を変えずに(基本的に無表情だ)、知ってるのだよ、と言った。僕が会社で体験した出来事を既にヨシノブは知っている、ということが言いたいのだ。なるほど、そんなこともあるだろうと思った。

知っているのなら、黙ってないで解決方法を一緒に考えてくれても良さそうなものじゃないか? 僕には時間が無い、出来る限り細かく時間を切り刻んで、その一コマ一コマに強烈な意味を与える必要があると考えてくれても差し支えがないほどに、僕は時間を無駄には出来ないんだよ。僕はそう言った。
ヨシノブは、もう答えは出ているなあ、と言った。それは有難いことだ、ヨシノブ、言ってみたまえよ。

僕があの部屋に籠って鎖を千切り続けるよ。

僕は奈落の底から吹き上げられる不吉な風のような、深い溜息をついた。出来るはずないだろう、僕が毎朝鎖を千切ることによって、初めて君は存在できるんじゃないか。何故かは無論わからないさ、だけどこうしてずっとやって来たんじゃないか。他の方法を考えなさい。

その鍵があれば僕は消えない。

ヨシノブの人差し指は僕の右ポケットを指していた。僕は鍵を――二つ――取り出し、家の鍵を右手に、そしてもう一つの鍵を左手に持った。ヨシノブの人差し指が僅かに角度を変え、僕の左手を指した。そしてヨシノブは指し示した方の手を開いた。僕はヨシノブの手のひらに左手で持った鍵を置いた。消えるのと同じことじゃないか、と僕は言った。

僕は消えない。

例を見ない力強さが、その声には含まれていた。ねじ伏せるような強さではなく、自然と従ってしまうような力だ。本当に、本当に、いいのだね?

君は僕だから。ヨシノブはヨシノブだから。僕が鎖を千切り続ければ、君も鎖を千切り続けることになる。そして君が仕事を頑張れば、僕も仕事を頑張ることになるのだよ。

それもそうだ、と僕は思った。でもなんだか、さみしくなるな。

そうかもしれない。

ヨシノブが震えるように笑った。そしてソファからゆっくりと立ち上がり、歩き出す。僕もヨシノブについていく。
ヨシノブは廊下の壁を手のひらで触れながら歩いている。僕はそれを何となく見ている。僕の右手の手のひらにも、心地よい冷たさが流れ込んでくる。

鎖のある部屋のドアの前で立ち止まる。僕はこういう時、何と言葉を掛けるべきなのかわからない。ヨシノブは言う。

このドアが僕達を切断し、そして繋いでくれるね。

確かにそうだ、ドアがドアである以上、その向こう側が存在することの証明なのだ。そして向こう側には常に、ヨシノブがいる。
ヨシノブはもはや何も言わなかった。ドアを開け(畳の淡い黄緑と、その縁にわずかながら鎖が見えた)、ヨシノブが部屋に入り、振り返る。僕の方を見て少しだけうなずいて、ドアが閉じられる。ガチャリ。内側から鍵を掛けられた音が聞こえる。
僕はもはや永遠に開かれることのない無個性なドアを暫く見つめていた。それもドアに穴が空くほどに。勿論ドアに穴が空くことは無い。そして残念ながら——幸運なことに、とも言えるだろうが——こちら側には鍵穴もなければ、鍵を開閉するつまみもない。これでさよならか。あっけない別れだな、と僕は思った。一通り納得したうえで、僕は廊下を引き返した。







それからの僕は毎朝同じ時刻に起き出し、一人散歩に出かけ、朝食をとり、会社へと向かい仕事をこなし、帰宅して夕飯を食べ、シャワーを浴びて、寝室でランプを点しながら本を読み、眠くなったらランプを消す、その繰り返しの中に生きている。ひどく単調だ(と言っても別段悪くはないが)。これでは部屋に籠って毎日鎖を千切り続ける生活と構造的には同じではないか、と苦笑が漏れることもある。
世界は——少なくとも僕の生きる世界は——平衡を取り戻した。僕もまた、他の大部分の人達と同じように生活をし、セックスをし、そして同じ方向の重力に引っ張られている。そしてまた、こんな生活が永遠であるとも今では思っていない。それはいつ会社をクビになるかわからない、ガンに罹るかわからない、交通事故に遭うかわからない、という意味ではない。

僕はあの日、リビングに戻り、くつろいだ心地を求めてソファに深く沈み込んだ。ヨシノブのお気に入りのソファだ。そこで僕は気づいた。

しかし——本当にそうだろうか?
本当に「永遠に開かれることのない」ドアなのだろうか?
決して違う、ヨシノブが鍵を持っている。

ヨシノブはあの正方形の部屋——畳張りで、それとは不釣り合いの剥き出しのコンクリート壁と、天井にぽっかりと嵌め込まれた丸ガラス、そしてどこか生々しい温かさを帯びた、ばかでかい鎖。それがこれからのヨシノブを取り囲むすべてだ。そんな連れ合いに我慢ならなくなった瞬間(ヨシノブはあまり我慢強い方だとは言えない)、ヨシノブは鍵を取り出すだろう。そうすればまた——いや今よりも桁違いに——世界が、僕が傾くだろう。

どうやらそういうことらしいのだ。
しかし僕にはどちらでも良かった。
ヨシノブとまた会える日が来るのなら、その時は二人で仲良く、空に真っ逆さまに落ちていくのも悪くない。