なんか言いたい。

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【徒然】人に利用されること、人を利用すること

「情けは人のためならず」、という諺がある。

誰かに優しくしてあげるのは、その人のためにならないよ、という意味では無い、と小学校の時に先生から教わった。

誰かに優しくしてあげるのは、巡り巡って自分のためになるからだよ、という意味だ、と小学校の時に先生から教わった。

 

ふうん、というくらいにしか思わなかった。だけど、いまは、少し気になる諺なのだ。

気になり始めた最初の最初のきっかけはなんだったのだろう。いつの頃からか、自分は利用される人間には絶対になりたくない、と思うようになった。そして、利用されているかどうかを、厳しく綿密に検査する部署を自分の頭の中にいつの間にか作り上げていた。

友達にバスケットボールをしようと誘われる。あまり仲の良くない人たちもいて、少し戸惑ったけれど、仲良くなりたいと思ってくれているのだと思って、喜んで承諾した。

だけど、実際に集まったら、僕に話しかけてくれる人なんて殆どいない。気を遣ってくれるということもない。話しかけても「ああ」というくらいの反応。

そうか、「あと一人足りなかった」んだ。納得。単にあと一人を「僕で埋めた」んだ。

この「僕で」が嫌だった。あまりにも嫌だった。僕が僕じゃないと言われている気がした。僕から「男子生徒A」になった気がした。なんだか、強烈にナイーブで、被害妄想的で、恥ずかしいのだけれど、でもそう思っていたことは事実だし、今日は徒然に書こうと決めたのだから、気にせず書くのだ。

 

まあそれはきっかけのひとつ、なんだろうな。他にも色んなことがあったんだろう。些細なことから、大きなことまで。でもそれは今はいいや。

 

こんな風に悲劇の主人公みたいな自己演出をしておきながら恐縮なのだけれど、僕だって同じことをやっていたに違いない。し、今も無意識にやっているに違いない。僕の欲求を満たすために欠けているパーツを、「誰かで」埋めているのだ。

でも、頭の中では、絶対に僕は「誰かで」何か自分の欲求を満たすまねはしたくない、と思ってきたんだ。自分に対しても、他人に対しても、「今、僕or彼は、自分のために誰かを手段として利用してはいないだろうか?」というセンサーは常に働いていた。意識的なものじゃない、無意識的なもので、そういう利用行為を発見するや否や脳内警報が発令されるのだ。

 

ここで「情けは人のためならず」に戻ってくる。結論から言えば、そしてもうお気づきだとおもうが、僕はこの諺が嫌いだ。

「人のために何かをしてあげる」というのは良いことに思えるけれど、実際には「自分が巡り巡って得をするのを目的に、誰かに良いことをする」わけだから、僕のセンサーに引っかかる。それ、偽善じゃんって。

 

この頃の僕は極端だった。「人のために何かをしてあげる」のが偽善になってしまうなら、もう誰かに本当の意味で(つまり自分のためでは全然ない形で)優しくすることは不可能じゃないか、と。「誰かに喜んでもらいたい」一心だとしても、誰かに喜んでもらったら僕も嬉しいからそうするのであって、その時点で一瞬にして偽善に変わっちゃうんだ、と。しかも相手は「なんていい人なんだ」って喜んでいるのに、本当はそんなことより「いや、自分のためにやってるんだよ」ってことなのだから、心を踏みにじっている感じがする。「誰かに善い行いをして、そしてその人に有難いと思われた時点で、僕は得をしてしまっている」のなら、その人に有難いと思われないような仕方で喜んでもらうしかない、と思った。

 

でもなあ、これっておかしなことになっちゃうんだよ。

例えば匿名の寄付。僕が100億円をどこかの恵まれない街や村に匿名で送るとしよう。きっとみんな喜ぶだろう。しかもこれだったら、僕の事を有難がってくれる人もいない。だけどきっと、僕は嬉しく思ってしまう。「嬉しく思うために、誰かに寄付をした」という、センサーに捕まってしまうタイプの行為なんだ。

さすがに何だかおかしいよねって自分でも気づいた。ていうか、このままだと「誰かと関わることを必要とする行為で、なおかつ自分が得をするような行為」は不可能なんだよね。

だから原理的に言えば、仕事なんかできなくなる。原理的にね。

どうすればええねん、という話です。誰とも一生関わらないとか、相手のためになることをしない、とかそういうことになるわけですけど、前者は不可能だし、後者はそれじゃ本末転倒じゃないですか!って話。

マザー・テレサとかイエス・キリストとかまで否定することになりかね無くて、もうこれは絶対に僕の考え方が間違っている。

 

やっぱり途中で考え間違えたに違いない。馬鹿だなあ。

「相手を手段として捉えて、自分の目的を達成する」ということが、僕にとっては悪だ、という主張からすべては始まっている。だから「情けは人のためならず」はおかしい。そして匿名の寄付もおかしい。というところまで行って(言って)、間違っているらしいことに気付く。

うーん、うーん、と悩む。

はっ。

手段と目的が同じだったらいいんじゃないですかね?

つまり、相手が喜ぶということ自体が自分にとっての目的であれば、それは何の問題もないじゃないですか。手段として捉えることにならないじゃないですか。

だから寄付を匿名でする時も、そこに相手に恐縮して欲しくない、借りだと思ってほしくない、ただ純粋に喜んでほしいという思いであれば、それはやっぱり偽善でも何でもない。

誰かの幸せが募れば募るほど、それだけで自分の幸せも募りゆく。そこに感謝とか、名声とか、そういうのを差し挟むことなく。そういう在り方が出来れば、きっと「誰かを手段として使う」在り方から抜けられる。

 

「働く」ということについてはどうなのか。結局生きるために誰かに何かをしてあげるわけだから、こればっかりは割り切って「人を手段に使っている」と言うしかないんじゃないのかなあ。

でも、純粋に相手の幸せを願って労働をした結果(そこに金銭がもたらされるかどうかはまだわからない)、相手が喜んで、どうしても受け取って欲しいということでお金を受け取るならば、「人を手段として使わずに」働くことが出来る。

まあ、机上の空論だけど、でもそういう結論に至れて良かったかな。

 

でも他者の幸せが何か、だなんて結局わからないじゃない。

そこに「この人、幸せそうだな」っていう解釈を与えるのはあなたがそう思いたいからに過ぎないでしょ。その時点であなたが幸せになりたいという目的のためにそういう解釈を他人に与えているに過ぎないということがどうしてわからないの?

と言われるかもしれない。確かにその通りかもしれない。だから多分、死ぬまで人のことを知り続けようとする意志が大切なのかなあ。正解に飛びつかず、慎重に、根気強く求め続けること。そこに終わりはないけれど、だからと言って歩くのをやめてはいけないと思うのです。

まあ、とりあえずそういうことかな。はあ、本当にこの歳になって底の浅い・・・

 

と思ったけど待てよ。誰かの目的=自分の目的として行動するってさ、それ、「自分が誰かの手段になること」じゃん。それ最初に僕が嫌だなあって思ったきっかけのひとつじゃないですか。どゆこと?誰かを手段として利用しないとしたら、自分が手段になるしかない、ということ?

ふうむ、何かややこしい迷路だなあ。でもさっきとは少し見え方が違う。今は取捨選択の余地がある、ということに気が付けるから。誰かに利用されようと望むかどうかは、自分が誰かを利用することと、自分が誰かに利用されることと、どっちが自分にとって辛いことか、ということなんだ。

で、しかも、自分が誰かを利用したくないと望んだところで、もし自分のように、「誰かの目的のために自分は手段となりたい」という人がいて、その「誰か」が僕だったとしたら、僕はその人を利用しなければならない。でも、これが間違っているとも思えない。

 

たぶん、「手段として利用されることを知り、そしてそれを望んでいる」人に対しては利用することは仕方がない。そしてこちらも、その人に対して手段となることを望む、そういう在り方が出来ればいい。逆に「手段として利用されることも知らず、知っていてもそれを望んでいない」人を利用するのはいけない、ということだ。

これは単なる契約関係とは違うと思う。契約関係だけ見ても、互いの心の中身はわからないからだ。例えば労働者と雇い主の関係でも、労働者が身を尽くして雇い主のために働き、雇い主はそれ以上に労働者に尽くそうと報酬やそれ以外の部分でも気遣ってあげるような関係と、労働者は出来る限り楽をしようと努力し、雇い主は出来るだけ労働者を酷使しようとする関係とでは、全く異なる。僕は、前者なら、理想的な関係性なのだと思っている。うわべだけじゃない、心から相手の目的が自分の目的であると考えるような関係性。これは経済活動でも同じだと思う。

 

でも、困ったことに、やっぱり誰かの手段になろうとせず、最大限搾取をしてやろうと考える人たちがいるし、誰かの手段になりたいと望む人でも、欲望に目が眩んでそうした行動に走る人が多いと思う。そうした搾取に対しても、やっぱり手段として奉仕するべきなのだろうか。例えば、じゃあ「あなたが死ぬことが、私にとっての幸福です」と言われたら、死ななければならないのだろうか?死ぬことが美しいのか?ここで、単純に「自分が死にたくないからいやです」と答えたとすると、無条件に誰かを受け入れるという在り方ではなく、やっぱりその奉仕には条件があったのだ、ということになる。つまり、自分に耐えられないほどの損害が与えられない限りにおいて、誰かに尽くしますよ、ということだ。こうした条件が付いたとき、さっきのような「誰かを手段として利用しない」「誰かの目的=自分の目的」という図式は崩れないだろうか。後者は崩れてしまう。誰かの目的を果たすことを拒むのだから。でもだからと言って「誰かを手段として利用する」ことになるのだろうか。うん、なる気がする。基本的に誰かの目的と自分の目的がイコールに見える、重なっているように見えるだけで、極限の状態を仮定すると、結局誰かの目的≠自分の目的になるんだから。そしてこういう条件を持っている人は、自分が誰か手段として利用されたくないと望む人を手段として利用しなければ死んでしまうような場合にも、恐らく利用するのだろう。やっぱり、究極的には、他者を利用するのも、他者の手段になることを断るのもやぶさかではない、という思いを持つことになるのだ。別にそうしなければ人非人という訳ではないし、相当立派だと思うのだけれど、完全じゃない。さっきまでの美しい言葉も結局見かけ倒しじゃないか、ということになる。

 

もうひとつの可能性はこういうことかな。つまり、自分が死ぬこと自体は構わない、目の前の相手の希望を叶えるために死んであげたいのだけれど、自分が死ぬことによって他の多くの人たちが不幸になる、だから死ねない、という方法によって死が避けられる場合だ。こうなってくると、結局、「ひいき」の話と、最大多数の最大幸福みたいな話になってくる。叶えてあげたい二つの目的が対立する場合、誰かより誰かが大切だから、一方を選ぶ。若しくは、一方がもう一方より多くの人を幸福にするから、一方を選ぶ。これはもうすでに、「誰かを手段にする」という例のセンサー対象だ。なぜなら、「誰かの目的を果たさないことによって、他の誰かの目的を果たしているから」。つまり、誰かを犠牲にして誰かを喜ばせるのだから。

 

犠牲とはつまり意志と損失の問題だと思う。つまり、自分の意志=選択が、誰かにとっての損害を引き起こす、ということだ。(ここに犠牲の宗教的な意味はありません)

そこには選択している自分の意志が存在している以上、責任が発生する。

誰かを犠牲にすることで発生する責任をどう取れば良いのだろうか。

責任を取る、とはどういうことなのだろう。

損害を埋め合わせるための行為を起こすことなのだろうか。逆にその損害と同程度の損害を自分も受けることだろうか。それで「責任が取れているかどうか」を決める、つまり「損害と埋め合わせの行為を評価する」のは誰なのか。やっぱり損害を被った人か。埋め合わせる、なんていうことが出来るのだろうか。過去の出来事を無かったことにする=埋める、なんてことは不可能じゃないのか。でも今なら、色々なものをお金に換算して、なんとか埋め合わせたことにするんだろう。

実際にはお金に換えることなんかできるはずがない。二度と同じ時間はやってこないからだ。その埋められない穴に対して、責任というものは無力だ。うーん、無力だとわかってうえで、なお償おうとし続ける。そしてそれをいつか許す時が来る。その時は、たぶんきれいさっぱり忘れてしまうのが一番良いのかもしれない。若しくは二度と語らない、ということだと思う。

 

そうなると、結局純粋に誰かを手段とせず、そして誰かの目的=自分の目的として生き抜くことは不可能だけど、でも、それを自覚しつつ、そして自分の意志で背負った責任についてしっかりと認識して償いを続けながら、それでも出来る限りの範囲(多分これも自覚しておいた方がよいのかな)で誰かの目的の手段として奉仕する、というのが、現時点での自分なりの理想の在り方、なのかな。

問い続けることを忘れたくない。けれど口だけになることは恐れなければならない。

それを戒めにして、生きていきたいです。。

はあ、長くなってしまった。最後まで読んで頂ける人がいるのだろうか(笑)

わざわざ読んで頂いて有難うございました。