高慢と変態

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写真と修学旅行→SNSのお話

高校3年生の妹が、修学旅行に行ってくる。

沖縄だよ、沖縄。

この季節でも沖縄だったら海に入れるんですよね。

シュノーケリングだ、バナナボートだと浮かれている。

 

修学旅行が楽しみすぎて、旅程を事細かに語ってくるのだが、特段興味の無い私は華麗にスルースキルを発動していたのだが、

「修学旅行までに通信制限かかんないようにしないと」

という言葉が出た時、ん?ってなった。

 

単純に「なんで?」と思ったのだ。友達と四六時中一緒にいてスマホを使う時間など通常より限られているだろうから、むしろ通信制限などどうでも良いのではないか、ということだ。

そう妹に尋ねてみたところ、

「だってLINEに写真上げられないから」

と言われた。

 

その時は、「なるほどーへー」と、最大の敬意を払いながらその会話を終わらせたのだが、その日、寝る前にふと、このやり取りを思いだした。

私たちの高校時代(とはいっても、まだまだ私は若い)には、まだスマートホンを所有している友達が多いわけではなかったし、LINEはおろか、Facebookもまだ誰も使っていなかった。コミュニティとしてはmixiが覇権を握っていた時代だ。

mixiは画期的だった。それまでにも個別でブログを書いて、そのURLを教え合って、コメントのやり取りをする、ということはあった。いわば、個人のブログが浮島のように複数存在しており、URLを共有した友人同士で、その島を互いに行き来するような形であった。mixiは、そうした独立に存在していた浮島を統合した、大きな島を創り出したことにその価値がある。インターネット上で、「高校」と同じようなコミュニティを形成することが出来たのだ。それまでの「浮島時代」においては、友人のブログを見たり、新しい日記が更新されているかどうかを確認したりするためには、まさに「訪問」する必要があったのだが、mixiにおいては、一度「マイミク」になってしまえば、タイムライン上に新着日記が現れるので、確認を繰り返すことのコストがほぼゼロになる上に、複数の友人の日記を同じアーキテクチャの上で見ることが出来るので、移動のコストも存在しない。複数のオンライン上の個人のブログをバンドルすることで、コミュニケーションのコストを下げたと言える。

 

mixiに取って代わったのがFacebookだと言える。それがなぜだったのかを考えるのもいいが、今は主旨とずれるのでやめておこう(今度記事にする予定)。ここで強調したいのが、mixiに取って代わったのが、LINEではない、ということだ。つまり、mixiFacebookには本質的な共通性が存在するが、LINEとは本質的に異なるということを、ここで確認したいのです。

mixiFacebookは、基本的に「発表」の場だ、ということだ。基本的に、投稿したものは、「友達=マイミク」全員に対して公開される。そしてひとつひとつの投稿は、推敲され、写真などによって彩られ、体裁を整えることが通常だろう。そしてまた、投稿は「何か決まったこと、決めたい事」が多い。例えば、「この前花火大会に行ってきた」などのリア充体験の投稿などはそれだし、「今度ライブやります!告知させてください!」などの宣伝系もそうだし、「私は~だと思う。なぜなら...」といった考える系さえも、それも別に悩んでいるわけでは無いという点(自分の考えはとりあえず決まっている)で、これに含まれる。このような傾向は、友達が多くなればなるほど、大きくなるだろう。投稿が「1対多」の形式になる以上これはやむを得ない(かなりプライベートな相談なんか不可能だろう)。ある種「パブリック」な場だ、と言ってもいいかもしれない。「コメント」という機能が「コメント」という名前なのは、必然だと思う。

 

一方LINEは「会話」に焦点を置いたコミュニケーションツールである。会話というのは、「I」と「you」の交換である。つまり、話し手と聞き手が常に交換されるのに伴い、主体「I」と客体「you」が相互に入れ替わるわけで、その点でお互いは等価なのだ。LINEは、自分の発言と他者の発言とが、同じ大きさの吹き出し(吹き出しというのがまた会話な感じだ)で、等価になっている。更に、複数での「会話」も可能だ。その際に重要になるのは、自分の発言だけが緑で右側に表示され、他の人の発言はすべて左に白色で表示されることだ。これは現実の会話における、「話す」か「聞く」かしかないというところまで捨象した結果なのではないだろうか。

こうした「会話」的な感覚に特化したインターフェースであることに支えられながら、LINEはグルーピングを自由に作り上げることが出来るという機能によって、Facebookmixiも)が「パブリック」な「発表」の場であったのに対して、「プライベート」な「会話」のメディアになっているのだ。Facebookが島をひとつにまとめたものの、他者と繋がるには、大きな声で皆に聞こえるように話すしかなかったわけだが、LINEは「自分」というものが幾つにも分裂して、自分が所属する小さなコミュニティのそれぞれで同時進行的に「おしゃべり」することが出来るのである。

 

こうした「おしゃべり」がオンライン上で可能になるということは、LINEによって、リアルの世界に存在していた小さなコミュニティでのコミュニケーションが、語弊を覚悟で言うならば、「そっくりそのまま」オンライン世界に持ち込まれたことを示している。とりあえず、mixiよりもずっと細かく、柔軟に、現実社会のグループの様相を反映させることが出来る、つまりオンライングループ=リアルグループといったパラレル性を可能にしたということがここではとりあえず重要だ。

 

パラレルということは、オンラインの機能を使いながら、リアルでのコミュニケーションにそれを取り入れていく、つまりリアルのコミュニケーションの一部を代替する場合もあるということだ。その例がLINEへの即時写真アップであり、これは写メを自分の携帯で周囲に見せるよりは、LINEへ投稿した方が早く、後にも残るし、これをネタに後でも会話できるからだ。そしてアップ直後には、これを見ながら、リアルで話をする。といった行き来が行われる。

というか、むしろ、新たな機能が備わったオンラインでの会話が、現実でのコミュニケーションのあり方を変えていくこともあるんじゃないのか。よくわからないけど。

だから、LINEに画像をアップするというのは、現実の「おしゃべり、遊び」と完全に連動していて、そのアップの瞬間に友人が側にいるということは別に不自然でもなんでもなく、ごく当然のことなのだろう。