「鳩の撃退法」(佐藤正午)がスゴい小説すぎて笑った
いい小説、って何だろう。
夢中になって徹夜で読んだとか、涙のこぼれた跡がところどころ付いているとか、なぜかもう1冊買いたい気持ちになったとか、人によって全然違うかもしれない。そもそも定義する意味なんてないのかも。
でもこの本を読んで、
一つのイメージが記憶に焼き付いたか、否か。
これを「いい小説」の、一つの基準にしてもいいんじゃないか。そう思うようになりました。
たとえば登場人物が本のカバーを栞代わりに挟み込むくせがあって、何度も何度もそういう仕草が折に触れて現れるとします。
その本を読み終わって何年かして、棚のなかで埃を被っているのを見付けたとき、思い出すのは筋なんかではなく、カバーが栞代わりに挟み込まれた本のイメージだったりしたら、それはそれで最高じゃないのかなって。
「鳩の撃退法」佐藤正午
小学館から出ている文庫版で読みました。
帯には
「こんなの書けたら、うれしいだろうなぁ。」
と糸井重里。
でも確かに、こんなの書けたらうれしいだろうなぁ、と思う。
「小説の技術」というものがあるとして、そのレベルがMAXにあるのがド素人ながらわかってしまうと言いますか。驚くほどの緻密さが、上下巻あわせて1000頁を超える大作の隅々まで行き渡っている、みたいな。素直に「何これすごい」って思いました。
伏線に次ぐ伏線、時系列の複雑なプロット、重層的な語りーー超絶技巧に翻弄され、気付いたときには物語に絡め取られて夢中になっているんですよ。「THE・小説」感。
でもでも、肝心のストーリーは、あえて言うとどうでもいいっちゃどうでもいい。読んだ後に残るのは、そこじゃない気がしておりまして...。一応あらすじを載せてみます。
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主人公の津田伸一は、女の家に居候させてもらいながら、夜はデリヘル嬢の送迎ドライバーとして小銭を稼ぐ生活を送る中年男性。
そんな彼には直木賞も獲った売れっ子作家だったという過去が。今でも仕事帰りにドーナツショップで本を読むのが日課で、ブックカバーを栞代わりに挟み込むのがくせらしい。
ある日、いつものように店内で本を読んでいると、津田は他にも読書している男がいることに気付く。しかも、カバーの折り返しを栞のように頁に挟み込むくせまで同じ。
興味本位でその男に話しかけてみる。
名は幸地秀吉、妻と娘の3人家族。
水商売のような仕事で家族を養っている。
煙草は体質に合わないため吸わない。
読んでいた本のことなど取り留めのない会話をし、再会を約束して別れる。津田は出がけに店員とぶつかり、熱々のコーヒーを浴びるはめになった...。
そして次の日、幸地秀吉とその家族は失踪してしまう。
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いや、確かに展開は面白いです。面白いんですが、肝心なのはそれでも物語じゃない。あとに残るのは、鮮烈で断片的なイメージの数々でした。
フィクションと現実との間には、超えがたい「膜」のようなものがある。それがなければフィクションをフィクションとして楽しめないですし。だから必要不可欠なものではあるものの、いい小説はそれをどうにかして、突き破ってくるのかもな、というのがこの本を読んだ感想で。
「ブックカバーが栞代わりに挟まれた本」というイメージが、フィクションの膜を貫いて現実に到達してきたわけです。で、前に述べた小説のテクニックは、そのイメージを鮮烈なものにしてるのかなあと。
なんか尻すぼみになっちゃったけど、本当に、こんなの書けたら最高ですよ。。